日々の掃き溜め

知らない誰かにどうしても伝えたいことをこっそり書いているブログ。

舞台「オサエロ」で観客になりきれなかった話

2月25日、僕は舞台「オサエロ」を昼夜2公演観劇した。素晴らしい舞台だった。
そこで思うところがいくつかあったのでキーボードを前にし、このブログを打っている。
ネタバレ(記憶違いも多いが許してほしい)や僕自身の主観を多大に含むので、そういった類いを好まない人は読み進めないことをおすすめする。

昼公演はただ運が悪かったのだ

そもそも僕がこの舞台を観るきっかけとなったのは推し俳優、松井勇歩の出演が決まったからだった。
2月も少し過ぎたころ、松井氏のツイッターアカウントにて「急遽出演が決まった」という旨のツイートを見、この日程なら日曜日に観に行けるな、とチケットを予約した。

急遽、という言葉と本番までの日数が気にかかったが、彼の吸収力の速さと瞬発力、アドリブ力なら問題ないだろうと感じていた。実際にその期待を裏切らず彼は見事な演技を僕らに披露してくれた。

しかし、稽古期間中、少しひっかかることがあった。
彼は元々こまめにツイートするタイプではないが(おそらく文字を綴るよりも口で伝えるほうが得意なのだと思う)、ツイート数が明らかに減っている。
とはいえ次にも大きな舞台を控えているので、忙しくてツイートできなかったのかも、と思うことにする。


いよいよ観劇当日、緊張と高揚がないまぜになったまま劇場へ向かう。
松井氏の出演する舞台や松井氏の所属する劇団Patchの舞台の客層は大半が僕と同世代の女性のため、毎回どこか肩身の狭い思いをしながら席に着いているのだが、今回はまさに老若男女、幅広い世代が集まっていた。

特攻隊を題材にした作品だからかもしれない。
さきぽん、ことSKE48の竹本彩姫さんが出演するからかもしれない。
愛らしい子役の勇姿を観に来たのかもしれない。
はたまた、僕のように松井氏めあてで来たのかもしれない。
元々この舞台は東京で上演されたものの再演であり、僕が知らないだけでとても知名度の高い作品なのかも知れない。

ともあれ、自分と世代・性別の異なる人さまざまな人たちと一緒に同じ時間を共有するのか、と思うとワクワクした。

僕の隣にふくよかな男性が座る。物販で販売されていた記念Tシャツ(色が違うように見えたのでもしかすると東京公演のグッズかもしれない)を着ていて気合い十分なのが伺える。
出で立ちから察するにさきぽんさん推しなのかな、と解釈する。


開演の舞台が鳴り、いよいよ始まる時が来た。
公園のベンチに腰かける老人におそるおそる声をかける若い女性。現代のシーンから始まるんだな。なるほど。

コフー

そこで、僕は何か違和感を感じた。
いや?まさか、気のせいだろう。
そのまま観劇に集中する。

この老人は若い女性の祖母と幼なじみで、彼は祖母のことを好いていたという。そして彼らのもう一人の幼なじみである浅井勝彦という男もまた、祖母を好いていたと。
松井氏だ、松井氏の役名が出た。期待に胸が膨らむ。

コフー

待っっっっっっって…
なんだこのコフー、は。どこから聞こえるんだ。
舞台はまだスモークをたいている様子はない。というかスモークがコフコフ言いながら出ていたらなかなかの機材不調ではないか。
しかもなんとも言えない、決して心地良いものではない臭いがする。
耳を済ませて音の方向を探る。この時点で中原老人を演じる清水氏の独白をかなりスルーしてしまっている。清水氏には正直申し訳なさしかない。

コフー

…嫌な予感がする。気づかれないよう、こっそり横目で隣の席をうかがう。

コフー

隣のオッサンじゃねえか!!!!!!!!!!!!!!!!
謎のコフコフも変な臭いも全部隣に座ってるオッサンじゃねえか!!!!!!!!
隣のオッサ…もといふくよかな男性は、言うなればその体型ならではの呼吸をしているのだ。
とはいえ体型ばかりは一朝一夕で、ましてや観劇中にどうにかなるものではないし、何よりやむををえない理由があるかもしれないので仕方ないとしよう。

しかし、だ。
お口エチケットの時間がなかったのかそもそもその概念がなかったのか、彼の口呼吸によって口臭が周囲へもちろん僕のところまで広がるのだ。
まさか観劇にいった先でバイオテロに遭うとは思っていなかったのでガスマスクも何もない。頼む、頼むからせめて鼻呼吸を…あああ…


結局僕は感動的なシーンすらも、チベットスナギツネのような目でぼんやり眺めることとなる。
僕が第二のふくよか紳士にならないよう、今度からエチケットガム絶対準備する。絶対にだ。

気を取り直して千秋楽へ

ふくよか紳士との夢のような時間(本当に夢であったならまだ救われたのに)を過ごしたのち、休憩も兼ねて近くの喫茶店で一服してから最後の公演へ。
そういえばふくよか紳士のバイオテロがあったとはいえ、今回の舞台はどこか違和感があるというか……そうそう、松井氏が終演後もまったくいつもの顔をしていなかったのだ。

松井氏は永遠のやんちゃ坊主、といったような印象で、誰かにいたずらしたりちょっかい出したり振り回したり、まさにクラスの女子から掃除中に「ちょっと男子ィ~!」と叱られるようなタイプだ(実際に劇団Patch本公演ではスタッフの方に軽く叱られてたりする)。
それでいて板の上に立つとその存在感、安定感はすさまじく、劇団員も観客も関係なくぐいぐい引っ張ってくれる頼もしい面もある、魅力的な俳優だ。ゆえに僕もファンである。

そんな彼は舞台が終わると大抵「仲間と演じられて楽しい!」だとか「お客さんに観てもらえて嬉しい!」といったオーラをこれでもかと発してカーテンコールに臨むのだが、
今回は主演の清水氏しか挨拶をしていないとはいえ、眉間にしわを寄せ、口を真一文字に結び、これから死地に向かう特攻隊員浅井勝彦のような様子だった。
最後まで役に入ってるのかなと思いつつ、見慣れない彼の姿がどうにも心に引っかかった。


日曜日夜公演、千秋楽は僕の家族も一緒に観た。
家族も劇団Patchの公演が好きなのでこうして時々観劇につきあってくれる。良い家族を持ったと自負している。
そして僕は昼公演のリベンジを果たすため、再びABCホールへと足を運ぶのだった。

夜公演は開場時間が予定よりも押していた。
終演後、出演者達がロビーで丁寧にお見送りをしてくれていたので、それが理由かなと考える。
僕は昼公演後早々に退散したので分からないけれど、松井氏とさきぽんさんは終演直後は見かけなかった。まあ直後にロビーへ姿を現したらファンが居座って芋洗い状態になること必至なので、賢明な判断だと思う。

しかし終演後のあのロビーを見て少しホッとした。
おそらく知人か家族であろう人たちと、朗らかに語らう演者たち。
彼らといま同じ時間を、同じ場所を共有しているのだという安堵を覚え、直後にその安堵が疑問に変わった。

僕ら観客と板に立つ演者らは別の時間軸を生きていたとでもいうのか?

確かに舞台は太平洋戦争末期だし、時間軸のズレを感じたということはいかにこの作品がリアルだったかを証明することに他ならない。
ただ、どうしてもそれだけが理由ではない気がした。


千秋楽は幸い座席にも周囲の観客にも恵まれ、集中して臨むことができた。
冒頭は前述の通り、公園のベンチに腰かける老人に若い女性が声をかけるところから始まる。
この時の老人を主演の清水氏が演じているのだが、初見では同一人物とは思えないほど声の使い分けが巧い。咳払いのしぐさ、ゆったりした動きなど、短い余生を過ごす老人を見事に演じられていた。

清水氏演じる中原老人の独白から場面は転換し、特攻隊基地の宿舎で遺書をしたためる松井氏演じる浅井の姿があった。
この間に清水氏は老人の姿から特攻隊員中原へと早着替えしなければならないのでいわゆる「場つなぎ」のシーンなのだが、
家族との思い出を振り返り、家族が大事にしていたものを身につけ、時折逡巡しながら遺書を書き進める浅井の演技は少しも間延び感がなかった。
さすがは僕らの松井勇歩である(言わずもがな贔屓目で観ている)。
その後中原がやって来て、最初こそ堅苦しいやり取りをするものの、次第に昔からの幼なじみへと戻っていく。

しかし、そんな穏やかな時間も残り少ない。
彼らは未明に出撃し、朝日とともにその命を散らす運命なのだ。
ためらいながら、中原が最期のわがままを、と浅井に切り出す。

「夏子が基地の外の林で待ってる。会ってやってくれ」
「……隊長からもう基地から出るなと言われてる。夏子に会うことはできない」
「夏子がここに来たのは俺に会うためじゃない!勝っちゃんに会うためだ!!

これが今回の作品のメインキャラクターによる三角関係だ。
中原と夏子、浅井の3人は幼なじみで、たしか冒頭でも中原老人が「皆の憧れの的だった夏子に中原も浅井も惹かれていた」と語っていた。夏子を2人の男が取り合うのか。なるほど。
浅井が答えあぐねるまま、更に時をさかのぼって夏子が基地にはじめて訪れる場面に変わる。


夏子は先任の昭代に連れられて基地へと足を踏み入れる。質素すぎる宿舎に驚く夏子をよそに、昭代が淡々と宿舎と特攻隊に関して説明する。
この昭代を演じるのがさきぽんこと竹本彩姫さん。恐ろしく顔が小さい。あと声がとても澄んでいる。抑揚が少なくやや早口で話す昭代のセリフも不思議と聞き取りやすい。
さきぽんさん、これが二度目の舞台と聞いていたが十分存在感がある。本業はアイドルなので女優業は二の次だろうが、卒業後はぜひ女優として活躍していただきたい。

その後特攻隊員達が続々と宿舎に戻って賑やかになったところで、中原と浅井が夏子と再会する。
昔話に華を咲かせるなか、中原だけはどこか孤独を感じているようだった。
何故なら浅井と夏子はお互いに気持ちこそ伝えていないものの、お互いを想い合っているのだから。報われない主人公の、苦い恋である。


その後色々あって(夏子に近寄ろうとする隊員を牽制する中原と浅井の幼なじみタッグは素晴らしく笑った)(さきぽんさんの膝枕シーンはさきぽんさんファンでなくても羨ましすぎて爆発するかと思った)、宿舎内で告白大会のような流れになった。

こういう奴いるよな~!「お前○○のこと好きなんだろ~」「ばっ、バカ!何で今言うんだよ!////」ってやつ~!学生時代クラスにいたよ~!!
ただ、これが現代ならもじもじしたり野次馬がやいのやいの騒ぐだけで終わるのだが、
ここは特攻隊基地。短い恋に終わるのは必至である。
重苦しい空気を最初に破ったのは中原だった。

「……俺は夏子の事が好きだな」

出し抜いたァ~!!!!(ノリノリ)
浅井も夏子も動揺している。無理もない。浅井は夏子を先に奪われ、夏子は命短い中原の申し出を断る事ができないのだから。中原、ずるい男である。

その後、中原と夏子の婚礼ごっこが執り行われるのだが、完全に当時の日本では煙たがられそうな誓いのアレで大丈夫か????と本気で心配した。
それ、君らが鬼畜米英と憎む国で最も割合を占めてる宗教だけど本当に大丈夫????
他宗教も何もない国だから許されるのかな…いやでも戦時中は天皇が神だったのでは…??あれ…??
まあこれフィクションだから!!!!
魔法の言葉、とても便利。

三角関係なのかバミューダトライアングルなのか

中原と夏子の関係が無事(?)に祝われたのち、宿舎で浅井と夏子が二人きりになる場面があった。
中原と付き合うこととなった夏子を前に、あくまで二人の恋路を応援する態度をとる浅井。そこで夏子が口を開く。
「私とオサム、……まだ何もしてないから
なんだなんだ、これから昼ドラでも始まるのかな????
夏子は清純派だとばかり思っていたが、なかなかのやり手である。可愛い振りしてあの子 割とやるもんだね、とかいうアレである。
しかし夏子の発言にも浅井はさして気にするふうでもない。

あれ?
浅井って夏子のこと好きなんじゃなかったっけ??
僕があれこれ考えているうちにも二人は会話を続け、「オサムはさみしがり屋だから」と浅井は言う。

「勝っちゃんは(特攻で死ぬのが)さみしくないの?」
「ああ。俺にはオサムがいるから

ん?
んん????
まって浅井それどういう事????

僕の疑問を察したかのように夏子が「どういうこと?」と問う。ありがとう夏子、いま君は我々観客の期待を一身に背負っている。
「一緒に育って最期も一緒に死ぬんだ。それって最高じゃないか?
だから浅井それ本当にそれどういう事……
これは所謂BLというやつなのだろうか。ボーイズラブという…やつ…?


誤解のないよう断っておくが、人には様々なセクシャリティがあるものだから、僕は別に同性愛を否定しようとかそういうのでは決してない。……のだが、だが浅井、お前今までそういう素振り一切見せてなかったのになんで突然そんな意味深なセリフ言うの。僕や夏子が疑問に思うのも無理はない。
だがここで夏子は「ちぇっ」とややふてくされながらそっぽを向く。そして浅井の方へ振りかえり、二人はいつものように笑いあう。

夏子あっさり許容しとるやないか。
まさに急襲を受けている心地である。奇襲を受けたのは夏子ではなかった。僕だったのだ。

あと夏子がそっぽを向く前に浅井が「俺はオサムと二人で死ねるからオールオッケー(意訳)」みたいなことを言っていたような気がするのだが、多分気のせいではない。他の隊員も一緒に出撃するのにまるで二人きりで出撃するかのような言い回しだったのは多分気のせいではない。
夏子を中原を浅井が取りあう三角関係かと思いきや、実際は中原→夏子→浅井→中原 のバミューダトライアングルだったようである。

そんな僕の混乱をよそに、二人のいる宿舎へ中原が現れる。
中原は二人を見た瞬間その場から離れようとするが浅井に引きとめられ、そして引きとめた浅井自身は「お邪魔虫は退散するよ」と宿舎を後にする。
浅井勝彦はクールに去るぜかよ。どこまでも良いやつかよ。

中原は変わらず浅井と夏子が想い合っていると信じている。違う、違うんだ中原、浅井は夏子ではなく本当はお前のことを……。
そんなことを知るよしもなく、「俺のことを好きだと言え!」と夏子に迫る。まっすぐ中原を見つめ「好きよ。」と告げる夏子。しかし、その言葉を聞けば聞くほど信じられなくなっている中原の姿が哀しかった。

そして、いよいよ出撃の命が下される。

恋のバミューダトライアングルと違和感の原因、選ばれなかった僕

場面は変わって出撃の1時間前、基地の外で待つ夏子に会ってくれと懇願する中原と、答えあぐねる浅井のシーンに戻る。
それまで悩んでいた浅井が口を開く。
「夏子には会えない」
それでもなお抗議しようとする中原に、浅井は胸ぐらを掴みながら
俺の言葉を聞け!俺を見ろ!
と叫ぶ。そうだよな、中原はいつも夏子のことばかりで浅井のことは全然見てないもんな。好きな奴に自分のほう向いてほしいもんな。

その後、「もう自分たちは出撃するし、そこに夏子はいない、死ぬのは親友の俺たちだけだ」という旨の言葉が続く。
中原も中原だが、浅井も本当にこう……夏子のことアウトオブ眼中だよな。3人それぞれが報われていない。つくづく気の毒である。

中原もこれ以上は無理だと悟ったようだ。浅井がさらに続ける。
「俺が親友と呼べるのはお前だけだった。親友のお前と一緒に死ねるのが嬉しい」

あっ……あくまでも親友ポジションを貫くんだな……。
いや、そもそも僕が腐女子的解釈をしすぎていたのかもしれない。中原が夏子に向けているものと夏子が浅井に向けているものは恋愛のそれだが、浅井が中原に向けているものはあくまでも親愛や友情の類かもしれない。というか松井氏ならいかにもそう解釈しそうである。
僕が自分の曲解を反省している間に、中原と浅井をとりまく空気は穏やかなものへと変わる。


しかし、そんな時間もあっけなく終わってしまう。
中原たちの隊も全員集合し、遂に出撃の時が来た。その時、隊長の口から予想もしなかった言葉が発せられる。

「中原の機体のエンジンがかからん。エンジンが直り次第、我々に続いて出撃するように」

中原の表情がみるみる絶望に染まるのが見える。
「どうして、どうしてですか、」
「分からん。今整備の者が急ぎ整備にあたっている。それまでお前は待機だ」
これほどむごいことがあるだろうか。
仲間が死地で華々しくその命を散らすなか、中原は一人基地でエンジンが直るのを待つしかないのだ。たった独り残されて。
美しく死ぬことすら許されないのである。縋るように中原が声を震わせる。

「嫌です、俺も連れて行ってください!他の機体でも他の燃料でも何でもいいです!だから、」
他に使える機体がないんだ!

場が静まりかえる。そう、隊長も隊員も、中原の置かれた状況がいかに残酷であるかを知っている。
だが、それでも彼らは中原を連れて逝くことはできないのだ。

泣き崩れる中原を起こし、激励の言葉をかける隊長。それに続き、中原へ最期の言葉をかける隊員たち。
皆一様に爽やかな笑顔で宿舎を後にした。


最後に残ったのは浅井だ。
この時の浅井の心情はどれほどであっただろうか。最後の最後で、親友、もしくはそれ以上の感情があったかもしれない男とともに逝くことが叶わなかったのだから。
それでも浅井の言葉はひどく静かで、穏やかで、柔らかかった。

「じゃあな。」

あああ~~~~!!!!!!!!松井勇歩~~~~!!!!!!!!!!!!
ここで涙腺が爆発した方も多いのではなかろうか。少なくとも僕は脳内でスタンディングオベーションの大喝采だった。
いやもうこのシーンだけで松井勇歩がいかに優れた俳優なのかがよく分かる。何なんだあの声、あの表情。最高かよ……。
そしてやはり松井氏の解釈では、浅井が中原に抱いているのは純粋な友情なのだろう。まず間違いない。
そうでなければこの別れのセリフはここまで美しく澄んだ音で響かないだろうから。
たったひとことで観客を感動の渦に巻き込む男、松井勇歩。贔屓目とはいえ流石である。


夜が明け、夏子が宿舎に入ると、そこには一人すすり泣く中原の姿があった。
夏子に気づいた中原は何かに怯えるように「俺も行くから、必ず死ぬから」と泣きながら頭を下げる。
夏子は中原の元へかけより、震える中原を抱きしめるのである。

そして8月15日、玉音放送が流れ、長かった戦争が終わりを告げる。


場面は現代へと移り、中原老人の独白が終わった。
夏子の孫娘は中原へ心から感謝を述べ、夏子が中原にあてたという手紙を渡して立ち去っていく。
夏子が死の間際に残した手紙にはこう記されていた。

戦争の後、夏子は夫に恵まれ、子宝にも恵まれ、幸せな人生だったということ。
しかし、その間にも中原と浅井のことはひとときも忘れたことはなかったということ。
中原は気づいていなかったが、浅井は中原のことばかりで自分には見向きもしなかったので嫉妬していたということ。

あっ、やっぱりそうなんですかね……????

しかしその直後に「神田隊長にも『二人の邪魔をするな』と注意された」と続くので、やはり浅井の中原に向けていたベクトルは友情だったのだろうか。
僕もう分からなくなってきたよ……。
いずれにせよ、夏子が嫉妬するほど中原しか見えていなかった浅井勝彦、おそろしい男である。


最後は中原老人の、若き頃にしみついたこの言葉で締めくくられる。

操縦桿をオサエロ、最後の生きる力だ、オサエロ、オサエロ、オサエロ──


あっという間の100分だった。
清水氏をはじめ、誰もが見事な演技を披露してくれた。カーテンコール、最後まで演じぬいた彼らに惜しみない拍手を送る。

しかし、僕の心はどこかここにあらずだった。
こんなに素晴らしい舞台だったのに何故だろう。どこかぽっかりと穴が空いたような、物足りなさが残っていた。
その理由も、主演の清水氏が最後の挨拶を始めてすぐに理解した。

昼公演と挨拶の内容がそのまま同じなのである。
気付いた瞬間、僕は総毛立つのを感じた。主演による同じ終演後の挨拶、そして硬い表情のままの松井氏。すべて昼に観た光景と寒気がするほど一緒だったからだ。
最後まで脚本通りで、決して広くはない劇場なのに板から遠く離れているような、まるで何度も同じ映画を観ているような感覚だった。


思い返せば、カーテンコールに限らず本編も限りなく脚本通りだったのではないだろうか。
演者の細かなセリフの誤差を除けばアドリブらしいアドリブはまったく見られなかったし、千秋楽は最初から最後まで昼公演との違いが見つけられないほどだった。

確かに何公演も続けるなか、同じクオリティを観客に提供しつづけることは全員の並々ならぬ努力を要する、非常に高度な技術を必要とするのは分かっている。
しかし、そうした「ナマモノ」だからこそ、要所要所のアドリブが活きるのではないだろうか。

また、役者がセリフを発する際、話しかけている相手の方ではなく観客の方を向くなどといった舞台的な演出が極端に少ないことにも気がついた。
舞台的な演出をやめることでよりリアルへと近づくが、観客と役者が向かい合わない分、お互いの間に一体感がなくなり、ギャップが生じて見えない壁が立ちはだかるのだ。
そして『ナマモノ』の舞台が映画的になり、観客と演者の距離が遠く感じられるのである。


すべてが腑に落ちた。
これらの統一された演出やリアル表現は決して不正解などではない。
単純に、僕がこの舞台で観客になれなかっただけなのだ。

自分がはまっているジャンルに関して、例えば期待していた割につまらないだとか高いだとか、そういうネガティブな感情で見てしまう場合、供給側からすれば自分はその時既に『対象外』なのだ。

また、今回の場合は僕がいつもの松井勇歩を期待して観賞したのも一因である可能性が高い。
元々彼はアクションやコメディでアドリブを織りまぜながら魅力を発揮する俳優で、派手な動きの少ないラブロマンスを苦手とする節がある。
つまり、この作品自体が彼の苦手要素しかないのである。そのうえ稽古期間がわずか6日で、役作りにも非常に厳しい状況であったに違いない。

結果として、今回は「浅井を演じる松井氏が出演する舞台」ではなく、「松井氏が縁あって演じることとなった浅井が登場する舞台」となり、松井氏が浅井勝彦である必要性が一切ないものになっていた。それこそ、浅井を別の役者が演じて、松井氏が他の特攻隊員役でもまったく支障がないくらいに。

自らを観客ならざるように観てしまった僕が一番の原因だが、結果として僕は舞台「オサエロ」で観客になることができなかった。招かれざる客だったのである。


千秋楽も無事に終わり、劇場は感動した、涙が止まらなかったと称賛する声であふれかえる。
誰目線だと揶揄されそうだが、僕はそれが本当に嬉しかったし、安堵した。皆、選ばれた観客であったからである。
おめでとう、そしてありがとうと、心の中でこぼし、僕は劇場を後にした。

帰りの電車は、普段使わない有料特急に乗った。徒労感がひどかった。主催側に憤りを感じることもなく(そもそも素晴らしい舞台だったのだから僕が怒りを覚えるのはお門違いだと思う)、観客になり得なかったという初めての体験がただひたすら虚しかった。


家に着くなり、録画したまますっかり観そびれていたドラマ「大阪環状線シリーズ」を観る。第5話、松井氏が奔放な男の弟役として出演している。
そう、この顔、この表情だ。
これが観たかったんだ。
そして先日、新たな舞台に向けて意気込む松井氏のツイートが投稿されていた。僕がよく見ていた、いつもの松井勇歩がそこにいた。


松井氏はこれからも今日のような舞台に立ち、そして役をまっとうするだろう。色々な思いをその内に押し込め、時には押し殺し、演じることもあるかもしれない。それはただの観客にすぎない僕には分かりようもない。
それでも僕はこれからも、板に立つ彼の姿が観られることを心待ちにし、劇場に足しげく通うのである。